甲子園の名の由来
阪神甲子園球場が完成した1924(大正13)年は、暦の干支を構成する「十干」と「十二支」それぞれの最初である「甲」と「子」が合わさる縁起のよい年だったため、この付近一帯を「甲子園」、野球場を「甲子園大運動場」と名付けました。開場日となる8月1日には、午前7時から関係者1,000人を招いた竣工式が行われ、続いて、阪神間の小学校から集まった2,500人の児童による阪神間学童体育大会が開催されました。「甲子園大運動場」として建設された当初の姿を再現した、ブロンズ・御影石製のモニュメントが、阪神甲子園球場のレフト側外周に鎮座しています。このモニュメントは、1994(平成6)年8月1日の開設70周年を記念して、朝日新聞社、毎日新聞社、日本高等学校野球連盟から寄贈されました。
甲子園の土
球場建設で最も神経を使ったのがグラウンドの土でした。阪神間はもともと白砂青松の地で、土も白っぽく、ボールが見にくい状態でした。そのため、各地の土を取り寄せ、試行錯誤の結果、熊内の黒土に淡路島の赤土を混ぜ合わせて粘り具合を確認し、グラウンドに敷き詰めました。当時の担当者はグラウンドを走ったり、すべりこんだりして土の硬さや色目を実験しました。この熱意は今も受け継がれ、黒土と白砂のブレンドは、グラウンドキーパーの長年の経験と技術によって調整され、絶妙の色合いと質感が生み出しています。
甲子園の芝
人工芝の球場が多い中、阪神甲子園球場は見事な天然芝を誇っています。球場開設当初は土だけのグラウンドでしたが、2年後には外野一帯にクローバーなどの草が生えて、芝の代役をしていました。芝は1928(昭和3)年から1929(昭和4)年の春にかけて張付けが行われ、同年の春の大会から芝のある甲子園となりました。また、1982(昭和57)年から芝の二毛作(ティフトンをベースにペレニアル・ライグラスをオーバーシーディング)に成功し、緑のじゅうたんを一年中保てるようになりました。見た目がきれいなだけでなく、プレーする選手にとっても、地球環境にもやさしい天然の芝。相手は生きものだけに、散水、除草、施肥、定期的な刈り込みと、日頃から丹念な手入れが施されています。
甲子園のツタ
球場が完成した1924(大正13)年の冬から、コンクリート打ち放しの殺風景な壁面を飾る目的で球場外壁にツタが植えられました。それ以来、外壁一面を覆い、阪神甲子園球場をベストドレッサーに仕上げてきたツタは、甲子園のシンボルとして球場の歴史と共に歩んできました。株数約430本、葉の面積はタタミ8000畳分とも言われたツタは、2006(平成18)年の秋から、球場のリニューアル工事に伴い一旦伐採されました。しかし、「歴史と伝統の継承」のコンセプトの下、「ツタの再生」が行われ、再植樹にあたり、2000(平成12)年夏に20世紀最後の選手権大会を記念して高野連の全加盟校に贈呈されていた甲子園のツタのうち生育状況の良いものが、「ツタの里帰り」として球場に戻ってきました。2009(平成21)年3月には里帰りしたツタと養生地で育成されたツタの再植樹が完了しました。現在も、外壁に沿って順調にそのツルを伸ばしており、壁面緑化としてヒートアイランド現象の緩和などにも貢献しています。
甲子園の観客席
開場時の阪神甲子園球場は、内野部分に50段の座席を有する鉄筋コンクリート造りのメインスタンド、外野部分には20段の築堤式木造スタンドを有し、計5万人分の観覧座席を備えていました。その後、1929(昭和4)年3月に外野スタンドの一部をメインスタンドと同じ鉄筋コンクリート造り50段の観覧スタンドに改修しており、後にアルプススタンドと呼ばれ、この名称が現在まで引き継がれています。外野スタンドの拡張は1936(昭和11)年で、この時「アルプススタンド」になぞらえて「ヒマラヤスタンド」と命名されたものの、定着せずに次第に使われなくなりました。
甲子園のスコアボード
阪神甲子園球場を印象付けるシンボルでもあるスコアボード。初代は右中間にあり、1933(昭和8)年の第19回全国中等学校優勝野球大会では、延長25回となった明石中対中京商戦でスコアボードが足りず、板を急遽継ぎ足して試合を行いました。現在のセンター後方に移り二代目となったのが1934(昭和9)年。コンクリート製に変更され、ヒットなどを表示する赤・緑ランプとボールカウントを、圧縮空気を使った電圧式でネット裏から遠隔操作するなど、当時としては画期的な設備でした。1984(昭和59)年、三代目となり、電光掲示方式に変わりましたが、独特な明朝体の書体については、それまでの手書き時代を継承しました。その後、1993(平成5)年の表示面の一部カラー化、2011(平成23)年のLED化、2019(平成31)年の表示面一面化・大型化といった改修を経ており、現在ではより迫力のある演出をお楽しみいただけるようになっています。
甲子園の銀傘
阪神甲子園球場の内野にかかる大屋根は、球場の歴史の中でその姿を変えてきました。開場当初、内野のメインスタンドを覆っていた鉄製の屋根「大鉄傘(だいてっさん)」は、その後アルプススタンドが設けられた1929(昭和4)年の2年後に、同スタンドを覆うように増設されました。しかし、1943(昭和18)年、太平洋戦争のさなかに軍への金属供出のため、全ての鉄傘が取り外されます。戦後の1951(昭和26)年にジュラルミン製の屋根として復活し、この時から「銀傘(ぎんさん)」という愛称で親しまれるようになりました。その後、1982(昭和57)年にアルミ合金製、2009(平成21)年にガルバリウム鋼板製に葺き替えられており、4代目として現在に至ります。2010(平成22)年にはリニューアル工事の竣工に合わせて銀傘上に太陽光パネルが設置され、年間で約193,000kwhを発電しています。これは阪神甲子園球場で行われるプロ野球のナイトゲーム開催時の照明が年間に消費する電力量の約2倍に相当します。また、4代目の銀傘から、屋根に降った雨水を地下タンクに貯蔵する機能も設けられました。敷地内の井戸からくみ上げる井戸水と合わせて、グラウンドへの散水や場内のトイレの洗浄水として、年間に使用する水量(約66,600㎥)の約65%を賄っています。
甲子園のスタジアム照明
いわゆる「ナイター照明」は1956(昭和31)年に初めて設けられ、ナイター開きとなった試合は同年5月12日の阪神・巨人戦でした。この試合では阪神が勝利を飾っています。高校野球では同年の夏、第38回選手権大会の伊那北-静岡戦が最初のナイター試合になりました。当時主流であったオレンジがかった色の“白熱電球”に加えて、より明るく、安定してプレーできる環境を目指し、明るく青白い光を発する水銀灯を加え、複数の種類を組み合わせました。これが「カクテル光線」と言われる混合色の照明で、阪神甲子園球場で初めて導入され、甲子園のナイターシーンの記憶と共に人々の心に刻まれています。1974(昭和49)年、演色性を重視したメタルハライド灯と高圧ナトリウム灯の混光源へ変更された後、2008(平成20)年のリニューアル工事ではすべての照明塔を一新。スタンドにせり出していた照明塔の支柱が解消され、観戦環境が向上しました。2022(令和4)年には環境への配慮も踏まえて、LED式の照明にリニューアル。LED式となった現在でも温かみのある「カクテル光線」の伝統を継承しつつ、音響やビジョン映像と連動した光の演出で、より球場が一体となった演出をお楽しみいただけるようになりました。
甲子園の中継の歴史
1926(大正15)年には、野球人気が高まり、球場で観戦できない人のために、試合経過を伝える装置(プレヨグラフ)が開発され、大阪や京都などにも設置されました。大きな盤面にボールカウントや走者の状況を逐一再現し、多くの観客が惹きつけられました。その後、1927(昭和2)年の第13回選手権大会では日本初のスポーツ実況中継(ラジオ)が行われ、1953(昭和28)年にはテレビ中継も始まりました。